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高松塚古墳の被葬者について 塩屋文化協会 溝口善久会長

[2015年6月26日掲載]

和歌山県御坊市の塩屋文化協会(溝口善久会長)が5月31日、飛鳥・奈良(平城京)の仏教文化を探訪するバスツアーを開催。会員ら48人が参加して奈良文化を散策する楽しい1日を過した。その車中で溝口会長の塩屋と奈良の仏教文化のつながりなど興味深い話があったのでここに紹介します。

(写真/溝口さん)

「2005年の発掘調査により、藤原京期694年~710年の間だと確定されました。歯やあごの骨から40代から60代の初老の人物と推測される。被葬者については諸説あり特定されていない。そもそも飛鳥地域の古墳群で被葬者が特定されているものが稀である」と最近の調査書にあります。

研究資料・年代・人物などから考察すると、「塩屋の建部君(たけるべのきみ)が高松塚古墳の被葬者である」というのが故・川端未光説。十数年前に川端さんから資料を戴きましたが、難解で理解できませんでした。その後、勉強していくうち、点と点が繋がって線となり、ようやく形が見えてきたところです。今回はその川端説を紹介します。

塩屋王子神社 美人王子の謂われ(川端氏資料より)

7世紀中頃、日高に名代(なしろ)として、高貴の君・建皇子(たけるのみこ)着任し、住まいを北塩屋にする。別領(わけりょう)即ち皇族領として北塩屋、南塩屋、森、明神川、熊野(いや)岩内を言う。特に、北塩屋を別(わけ)の里と称する。

諸国の名代(なしろ)子代(こしろ)の長官として君臨し、7世紀の、時の藤原京宮城(きゅうじょう694~710)十二門のうち、重要門である建部門(たけるべもん)を預かり、大伴氏と共に 御所を預かる。天皇の即位にも大伴氏と共に立ち会いする。

建部君は伴(とも)の造(みやっこ)として一大軍事力を有し、紀伊、河内、和泉、摂津、播磨、美作の重要地を有し、大和内智(うち)の郡(こおり)(五条)を預かる。

同族、堺部氏に管理を命じ、紀氏の陸軍として威力を発揮し諸国を転戦する。

時に、建部君、崩御せられ、人々大いに哀しむ。明日香高松に四面壁画を配し、安置する。二十世紀末高松塚に壁画を発見せられ、世人驚きを隠さず。

塩屋の人々は偉大なる建部君をお慕い申し、七世紀より千数百年に渡り皇子の御違徳を忍び祭りを営む。毎年、重陽の節句にご祭礼し、衣笠を貴人に差し掛け縦者の後より、みめ麗しき女官十数名従えて貴人の御成を四神が守り渡らせ給う。これが美人王子の謂われである。

塩屋の二つ巴のこと(川端氏資料より)

塩屋の神社と明日香の橘寺の紋瓦が二つ巴で同じです。それは用明天皇の御子・聖徳太子と用明天皇の孫に当たる高向王の子・塩屋の建皇子 は同族で、当然、同じ紋を使います。

明日香と塩屋 (田中文彰氏…川端氏歴史を語るより)

天皇家・要するに蘇我氏が5世紀に出雲へ入って出雲を押さえます。

出雲には蘇我川という川があるくらいですからね。にもかかわらず6世紀になったら出雲全部を太氏「多氏(おおうじ)」が統括するんです。それで、出雲の熊野神社(その当時は熊野の大神?)を紀州の塩屋村に持ってきたんです。その後、新宮へ移したんやけどね。これは奈良時代の古文書、新宮の速玉神社の古文書にそれが出ています。塩屋村から速玉神社のご神体を持って出た言うて。出雲族の根拠地でしたんですけどね。日高郡で塩屋村ていうところは。

高松塚にある壁画と同じ祭りの四神の行列、 星座まである。祭りで、星座まで持って歩いてるんですよ。

この前、祭りに帰って今いう発見したんは、四神ね、これが矛(ほこ)の根っこにみな付いてました、それを皆こう、捧(ささ)げて持って。で、その前には衣傘を持って歩いて行く。それから、四神の後ろに縄のすだれみたいのを星の形にして持って歩いてました。高松塚古墳を暴いてこそ、初めてあのような四神があったてこと分ったんです。やっぱりこれは息永氏(おきながし)の系統で、息永氏には立派な絵描きの集団がありまして。その集団が描いたんだと思いますね。

高松塚と黒塚とへ。それと同じ光景がうちの塩屋村にあるんやから、相当な天皇家に準ずる権力者やったんやね。四神を持って歩くいうことは、王家のシンボルやからね。特に、その今の祭りの行列の御神輿さんの後ろから付いて行く形がそれやないんかと。

宮子のこと(田中文彰氏、川端氏歴史を語るより)

お姫さん、宮子。藤原氏に養女にいれて、うちからでてるんです、宮子はね。当時、郡司の家から全部女官を取ったんです。郡司には、大領、少領、主政、主帳と4家あるんです。この中で天皇家でお后で迎えてくれるのは、大領と少領とふたつだけです。昔は殆どが天皇家とつながりのある家系でないと皇后さんは入れななかったんです。ところが藤原不比等、これがうちの宮子を養女に入れてね、これを文武天皇の皇后にいれてしまうんです。藤原の宮子言う名前で。それで出来た子が聖武天皇。

それでね、宮子の出生をね、向こうの土地ではね。 海女の娘でものすごい髪の毛が長くていい髪しとって、時の天皇がすずめの咥えてきた長い髪の毛を見て、こんな立派な髪の毛をもっとる女やったらさぞかし別嬪やろ、それを連れて来い言うて、行ったんが宮子や言うお伽話になっとるけど。海女の娘ごときは、便所の掃除もさしてくれなんだんや。それほどに宮中は、家系いうものを大事にしとったから。これはおとぎ話で、〈かみなが姫〉という事になっとる。そやけど、ほんまは違う。

私のところのような地方の豪族出は、なんぼ家がしっかりしとっても、藤原氏にはかないません。藤原氏は宮子を入れてからですよ、どんどん藤原氏からお后を入れたのは。最初はうちの娘を連れて行って、藤原の宮子という事にして、文武天皇に嫁に行かして、それから藤原氏がどんどこ。それから、百年ぐらいは続いてますな、お后で、紀の何々ちゅうて名前でいってますわ。仰山入ってますんやで、うちは、天皇家へ。

(写真/塩屋王子神社祭りの境内で)

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